2010-05-31

MOMA

先日Marinaさんと言う方の特別展がMOMAにてやっているという事で友達と行ってきました。




白い服を着ている方の方が当のアーティストです。

彼女は座っているだけです。そして数十分経つと右側のお客さんが交代します。

上の階では、生身の人間が裸で立ったり座ったり、横になってたりしています。男性女性共々。これもすべてMarinaさんの作品のようです。

とある二人の男性は全裸で40センチ程の距離で向かい会いその間をお客さんが通って行きます。とある女性は全裸で横たわり、骨の模型が体の上に置かれていました。アジア人らしき女性は壁に貼り付けのような姿で踏み台にのり、これまた全裸で踏み台に乗り両手をひたすらゆっくりと動かしてました。

僕が何を感じたかというと、実はあまりよく分からなかった、、、

ただすべての作品(人間)から呼吸というものを幾分か感じた。そして当たり前の事だが、人間というのは止まっていても生きているんだなと思った。

それにしてもNYならではの作品だ。


2010-05-27

お詫び

諸事情というか、気まぐれというか、facebookとtwitterをやめようと思いアカウントを削除したのですが、何人からかブーイングがきたのでやむおえずfacebookは復活させました。。。だがtwitterに関しては同じメールアドレスではもう一度復活させる事ができないようなので、当分はなしでいきます。ブログにて発信して行こうと思います。

これまtwitterでフォローして頂いた方ありがとうございました。と言うよりも急に消えて申し訳ありませんでした。

ちなみにちゃんと生きてますのでご心配なく。

2010-05-23

龍笛の事~責と和の出し方

Twitterでは少し書ききれなかったのでブログにしました。


今回は龍笛吹かない人には全く関係ない話です。ですので最初に御断りさせてもらいます。。。。


ここ二年程龍笛の“責(高音)”の音と“和(低音)”の音の出し方で気になっていた事があったのですが、それが今日少し分かったので書きたいと思います。

以前、相方から「和の音は責の口で吹くんや」と言われた事があります。その時は実は僕、反対だろって思ってました。

師匠はいつもとにかく口の力を抜いて責の音を出せといいます。和の音と言うのは口の力を抜いて出す事が出来ますが、責めになるとどうしても口に力が入ります。僕も人に教える時は必ず和の口、所謂口の力を抜いた状態で“責”を出すように教えます。

しかしこれは少し実は違ったのです。ただ口の力を抜いて“責”であれ“和”であれ音を出そうとすると音がどうしてもぼやける。簡単に言うと、口の力を抜いてぎりぎりまで口を閉め“責”を出す。そしてその口で“和”を出す。こうすると音の密度が高くなるから、竹に対し数倍の振動数を加えることができる。結果音も伸びるし、煤竹の音がでてくる。

こういう風に意識して今師匠の音を想像してみると、あの人の口はかなり力は抜けているがしっかりと閉まっている。もちろん師匠はそんな事は口にした事がないが、相方は見抜いていた。

遅ればせながら僕は今日それを体で持って理解した。

しかし実はこれは誰にも言うなと相方から言われていた事だが、、書いてしまった。。

2010-05-17

レポート

ばたばたした一週間でした。

やる事がたくさんあると、だんだんとそれを自然にこなしてくる自分に気付いてくる。それはおそらく自分の中での成長の一つなんだと思う。





さて先週のコロンビア大学の学生さん達のコンサートですが、僕は助っ人として鞨鼓をさせてもらいました。最近僕がここで教えている時のテーマは雅楽を深く習得するには、日本文化の心を学ぶ必要があるのかどいうかということです。

簡単に答えは出したくないのですが、なぜなら日本文化と言っても概念が広すぎて又具体的にどういういう事なのかというのも僕もまだ理解していないからです。しかしオタマジャクシを追うだけでは意味がないという所までは僕の中で結論に達してきたような気はします。

まずは合奏というのはソロではないから自分をある意味殺さなければならない。リードする人間に精神を合わせなければならない。これはただ単に音程を合わすという意味だけでばなく主管の人の音を生かすよう吹かなければならない。だから助管を吹くという事はこの点においては音頭を吹くより難しいと僕は思う。

自分を表現せずに、相手が持っている技術をどういう風に吹けば生かす事ができるのかを考えて吹く。これは所謂相手に花を持たせてあげる“和”の心ではないだろうか。相手を生かそうとすると自分の本来の個性が生かされてこないわけがない。自分ではない人のいい部分を引き出すにはどう吹けばいいかを考えて吹く事が、結果的に自分本来の吹き方を “取り戻す。”

こういった考えが雅楽をする事によって学生さんが感じれるようになったらなあと僕は思うが、これはあくまでも僕の個人的な意見だ。

あとはやはり見た目が雅楽は勝負であるといっても過言ではないと思う。どこの国の人間だというのではなく“凛”としているかどうかだ。この大学のプログラムは1セメスター終わるとコンサートに出ないとだめだから、週一の三カ月だけ練習した生徒でも三か月後は人前で吹かなければならない。その生徒に凛と吹けと行っても無理があるのは承知だ。15年以上やってる僕でも人前に出ると今でも縮こまってしまうのに、、、

さてこの凛というのはもちろん内面から来るものだが、実ははったりが可能だ。それは姿勢を正し、前を直視する事だ。これは僕が以前にも述べたコアーを包む外側の部分である。宗教で言うところの儀式の部分だ。そして実はこれは日本人よりもアメリカ人の方が得意だ。日本人は自信がないと下を向いたり小さくなるが、アメリカ人はそんなのは関係ない。そして練習よりも本番が強かったりする。今回も本番が一番良かった。

何を言いたいかというと、凛とした部分は彼らは持っている。多少僕の言いたい凛とは違うがまあよしとしょう。そして先に述べた僕が提唱する“和”というもの、これは残念ながらまだ彼らにはない。例えば僕がジャズを勉強するとしたら、どういう風にそれが黒人の中から生まれたかを感じようと努めるかもしれない。答えはそういう事だ。

日本の事をしっかり学び日本人がどういう精神で雅楽を重んじ、どのように感じているかという事を学べという事を僕は無理強いしたくない。が、今回演奏を一緒にしてて思ったのは、他国の長い伝統芸術を学ぶという事は、その国の精神というか、心を学ぼうとする気持ちがないと、どうにも、もしほんまもんを目指すのならば難しいのではないかという事に気付いてきたような感じがする。先に述べた“他人に花を持たせ自分の我を殺す事”だ。これは僕が思う“和”の定義だ。彼らにとってはこれはただの1セメスターであったり、ただの1単位に過ぎないのでそこまで僕が考える必要はないのかもしれないが、そういった事を考えてもらうような時間を作るのも悪くないし、これこそが実は音を出せるようになったりする事よりも大切な事かもしれない。



話は少し変わり、先日友人の弦楽コンサートに龍笛で出演してきました。




慣れない曲だったので僕はいくらかミスが出ましたが、まぁ今の僕の実力ではこんなもんでしょうと言いたい。感じた事は、ほとんどの奏者がその道のプロだったから、やはりさすがだった。巧い。全員がかなり高いレベルで合わせてくる。

こういうのは確かにやってて楽しいが、やっぱりやればやる程正直古典をやりたくなってくる。龍笛、雅楽というものをいうもの広めるという点においてはこれも一つの方法であるし、お客さんの評判も決して悪くない。

しかし本当に僕が表現したいものを表現するにはやはり古典をするか、若しくはソロでしか難しいような気もする。

2010-05-11

お知らせ

友人の弦楽コンサートに龍笛で少しだけ参加します。
お時間のある方どうぞお越し下さい。


日時 Tenri Cultural Institute (43A West 13th St.) on Friday, May 14th at 7pm.


Free













2010-05-01

形式というもの

知人から聞いた話ですので細かな部分は違ってるかもしれません。

とあるアメリカ人がマンハッタンのビル一角にお茶を楽しむために茶室を作り、何人かの日本人にお茶をさせたそうだ。

とある夏の暑い日に、日本人の先生がたくさんの人を呼びクーラーなしの部屋で着物を着て、熱いお茶を楽しもうとしていたらしい。日本人の先生が例え真夏であっても形式通りにそれをするのはある意味当然かもしれない。しかし普通に考えれば、マンハッタンの真夏のど真ん中で着物を着て熱いお茶なんか楽しめれるはずがない。

このアメリカ人は言ったそうだ。「日本人はお茶の心が分かっていない」と。

そしてこのアメリカ人はお客さんに対し、茶室にクーラーを入れ、ビールと練乳のかかった冷たいイチゴでもてなしたそうだ。

僕はまだまだ何も分かっちゃいないただ突っ走ってる若造だが、確かにお茶というのはお茶を楽しむものだが、“風流”を体で楽しむものであるとも思う。えらそうな事を言ってるのは承知です。

だから真夏にお茶を楽しむというのは、クーラーの部屋で着物を着てビールを飲んだってしっかりと筋が通っている。

お茶自体が大事であるのではないという事はいうまでもない。

形式というのは誠に大事だが、原点を考えず感じるという事を怠ればそれはまったく意味をなさなくなる。

雅楽に置き換えてしっかりと考えねばならない。