2010-02-28

えーっと、、、


今月はほんとにブログが更新できませんでした、、
そしてもう2月が終わります。早いです、、こんな感じで人生が過ぎてゆくのかと考えれば、ある意味急いで生きて行かなければならないと思う。

また大きな地震です。
ペルーに友人が住んでいるが大丈夫だろうか?

我が実家の高知県もいずれ大きいのが来るだろうといわれてて些か心配です。

さてと書き始めたのはいいが特にネタがない、、というのは先週はひたすら宿題に追われてたからだ。。。

でも少なくとも一週間に一度は更新したいからとりあえず写真でも貼っつけときます。。
すいません手抜きで、、


このビールなかなかいけます!!



ブルックリンブリッジ


見ての通りです



一つだけ今週学んだこと。

「待たなければならない時は待たなければならない。」


さて今晩は友人のコンサートに行って来ます。




2010-02-19

アメリカに雅楽の何を伝える?

和太鼓や尺八が海外である程度知名度があるのに対し、大学としてはコロンビア大学、ハワイ大学、ケルン大学に雅楽コースがあるにも関わらず、雅楽は海外においての一般社会では知名度が低いように感じます。今通ってる学校でも日本のtraditionalinstrumentを吹いているって言ったらほとんどの先生が尺八かって聞いてきます。龍笛なんかいってももちろん誰も知りません。

まず雅楽がこちらにあまり伝わっていない理由として考えられるのが単調なリズム、西洋音楽のように感情を直接的に表現していないから曲に抑揚がない、だから外国人がそれを聞いた時にどう反応していいのか分からない。それと僕が思うのは、龍笛、篳篥は音がなかなかでないし、雅楽は独学が困難だ。そしてアメリカはそもそもJAZZの国であり、リズムが全く違う。

雅楽は確かに難しい。数年かけて練習しても一人で吹けって言われたらほとんどの人がまともに吹けない。例えば僕の母校の大学でも4年間毎日必死に練習しても、最終的に一人でお客さんの前で演奏しろって言われたら何人の学生が、たとえ10分でも吹く事ができるだろうか。。もちろん合奏芸術であるから一人で吹く事はあまりありませんが。

しかしなが先程述べた、雅楽は感情を直接的に表現していない、又、単調なリズムだからという考えでさえ、例えばこちらの人が感情を表現するものにしか興味がないとするならば禅というものが伝わっているわけない。meditationはこちらでも盛んだし、とあるNYの大学教授はその大学の学生さん全員に座禅を組むべきだと説いている。“無”という“感情”に興味があるというならば話は別になるが。ちなみに僕の“無”に対する考えは“無”は“有”の反対であり、“空”は無も有もない状態だと捉えている。

ならば雅楽は“空”を表現しているのか??ここまで考える必要があるのかどうか分からないが、とりあえず最後まで考えてみたい。

しかし人間というものは感情を持っている生き物で、何かを表現したいという心から雅楽も生まれて来たのだと思う。ならばなぜ人間の表現したいといういう気持ちから生まれた雅楽がこの国に他の和楽器に比べて伝わっていないのか?それは先にも述べたおそらく単調すぎるリズムと曲に抑揚がないという事と元々合奏として成り立っているものなので最低限の人数がいないと発表会すら開けないという理由からであると思う。さらに楽器や装束が高価であるという事も考えられる。

僕はプロフィールに“世界中に雅楽を!!”っと威勢のいい事を書いているがそもそも何を伝えるかという事も考えなければならない。雅楽演奏家を増やしたいのか、リスナーを増やしたいのか。

僕の目的は演奏者を増やしたいのでもなくリスナーを増やしたいのでもなく、ただその瞬間、その空間に“感激”を与えたいのです。そして以前にも述べましたが、もう一つは自分が“笛を知る”ということです。侍が剣をもって己を磨くと同じような考え方です。もちろん演奏者が増えたり、リスナーが増えるというのはうれしい事ですがそれはあくまでも結果の話です。

長い年月をかけて日本で培われたきた雅楽には“和”の精神というのが必要です。和の精神というのは個性を殺すして吹くや、どうだこうだとは全くもって違う別次元の話です。雅楽における和の精神というのは僕は呼吸だと思っています。“息”を合わせる、“意気”を合わせるのだと思うのです。よく雅楽の世界では、演奏会を段取る時などにおいて、「管絃だけじやねぇ、、舞いがないとね、、」という会話を耳にします。お客さんを管絃(舞のない曲)では引きつけれないと思ってる人が多すぎる。管絃だけ演奏してお客さんが帰ってしまう理由を自分達の技術のせいにする事なく雅楽の曲のせいにしてしまい、舞楽をすればお客さんが喜ぶと思っている人が多すぎる。

確かに先程、海外においては雅楽がいまいち伝わっていない理由としてリズムが違うや曲に抑揚がないからだと書きましたが、演奏者全員が“気”というものを理解し雅楽に望むならばどの芸術にも劣らない“空間”を作りだせるはずである。雅楽にはその力が備わっています。

ここを伝えなければならない。人々にこの空間の中にある人間にとってすごく大切な“普遍的である何か”を伝えなければならない。僕はこの部分がある事を信じているし、その部分を知っているのは今のところ自分の師匠以外知らない。

僕はこの“何か”を表現することができればそれは、世界にとっては一粒の雨であるかもしれないが、それは大きなものを変える事が出来るものだと思っている。具体的に何だとはいえないが、人の心を大きく動かすものであるに違いない。

しかしながらまだまだ僕は頭で考えているだけである。行が足らぬとつくづく感じるし、毎日自分の煩悩に負けてばかりだ。。道のりは遠そうだ。


でも絶対大きな花火あげてやる。

2010-02-12

雪 雪、、


しんしんと雪が降る。


昔の日本人はうまいこといったものです。日本人独特の感性ですよね。


しかしながら先日のNYの雪は“しんしん”という感じではなく、なんだろうとにかく大雪だったので、、、








ほとんどの学校が休校になってるのにかかわらずうちの大学は通常どおり。勘弁してくれ。。


そして次の日は一変して快晴!!


さて先程“龍馬伝”の6話をネットでみました。


吉田松陰が黒船に乗り込もうとする龍馬との場面~とにかく死のうが捕まろうが、今の気持ちを抑えきれずに海に小舟で出ていこうとする松陰。それにあやかろうとする龍馬。


普通にみると完全に子供みたいだか、この後先見ずの若者達の行動が当時の日本を動かしたと思うと、“事を成す”というのは勢いだなと感じる。




休んでる場合じゃないし、日々是好日みたいななのんきな事いってる場合じゃない。僕もとにかく止まらずに日々前進していかなければ。





2010-02-07

足元見つつ遠く見つつ


なんでか分からないが気持ちが焦っている。

分からないから気持ちを整理するためにブログを書きます。

近頃、切に思う、、ほんとに笛がうまくなりたい。しかしなんとなく師匠の“あせるな”という声が日本から聞こえてきます。龍笛ばっかり15年近く吹いてて笛の技術なんかすぐに上がるわけないのが分かってても、一日一日上達していきたいと最近毎日思います。

師匠はいつも僕に「おまえならできる。おまえならできる。」
と暗示をかけるように僕を育ててくれました。この言葉が今の僕を支えています。

先ばっかり見てると今しなければならない事が見えなくなるし、今しなければならない事ばかり見てると先が見えなくなります。僕はこのバランス感覚を取るのがどうも苦手のようだ。。。つくづく自分の気持ちをコントロールする不器用さにあきれる。。

自分に龍笛に対する人の評価に頭が回りだすと音が濁ってくるのが分かる。人の評価を気にしだしそれに迎合しだすと芸術はおしまいだ。もちろん幾分かその時代に合わせるという事も必要だが、、、、

いくら人にGREATって言われても結局自分が笛を吹いているという事を、笛を吹いている時に“自覚”しないと僕はいつまでたっても満足できないのだろう。所謂正覚だ。

この自覚するというのは“笛を分かる”という意味であって僕が永遠に辿りつけないかもしれない、また明日にでも辿りつきたい境地、所謂真髄の部分、いや神髄の方が合ってるかもしれない。


なんとなくくだらない事を書いてしまった、、、

さて足元とはなんだ!?

明日の宿題だ。。。

2010-02-05

ギャラリーにて。龍笛、バイオリン、ベースでの演奏


一昨日、昨日とチェルシーにあるippodoというギャラリーで演奏させて頂きました。今回はギャラリーからの招待客だけという事だったのでプライベートコンサートのような感じでした。

メンバーは前回と同じくバイオリニストのMamiさんとベースのタカさんで、内容は僕の古典のソロ、今回は春がテーマだったので「春庭楽」と、その後は少し説明を加えて後、三人でさくらさくら、越殿楽(龍笛、バイオリン、ベースでのオリジナルバージョン)、春の海、アンコール曲としてジュピターでした。

ここのギャラリーは所謂“本物作品”しか置いていなく、今回来られていたお客様もほとんどが各分野での世界トップクラスのプレジデントクラスの方々だったようです。そして日本の歴史についても大変造詣が深い方ばかりで、もちろん耳も一流です。

演奏の目的は二つ。自分の演奏に自分が納得する事、そしてお客さんに喜んで頂く事。

演奏後にレセプションがあり、その時にはずいぶんとお褒めの言葉を頂きましたが、僕はどうしてもこの人達が本当に喜んで下さっているのかが分かりませんでした。後のうちあげで僕のNYで芸術活動の指南役でもあり、笛の弟子?(どちらかというか僕の方が色んな意味で、色んな場面で弟子のような感じですが、、、)でもあるYさんに、あの人達本当喜んでいたのかそれとも、御愛想なのかを聞いてみたら、御愛想言う人達じゃないから。って言われたので少し安心しました。因みにYさんはこのギャラりーのスタッフで今回僕たちの演奏をプロデュースした方です。

ただいつもの事ですが、僕は自分の演奏に納得がいってません。今回気付いた事は、僕はまだ体の力を抜いた状態で、緊張や集中力を高めていくことが完全にできていない。ただの緊張は演奏にとって全くのマイナスである。そしてこれは欲の心から生まれるくるものであると僕は思っている。例えば、うまく吹きたいとか、きれいに吹きたいとか、間違わないようにとか、くだらない煩悩からこういう緊張は生まれてくる。芸術に美しいというのは必要であっても、きれいというのは必要ないと僕は思っている。美しいというのももちろん表現をした後の結果論の話ではあるが。

もっともっと演奏中、自分と地球とお客さんが一体にならなければならないと思う。僕は笛吹きだから、絵を描いたり、物を作ったりして物理的な目に見えるものを創作しているのではないが、僕も彼らと同じように、その場限りの一つの作品を作っている。それは“音の世界”である。だからそういう意味においては見ている方の協力も必要なんです。今回のお客さんはそういう点で完璧でした。ただ僕の空気自体を芸術作品に代えていく力というか、なんというかそんなものがまだ全然足りない。簡単にいうと“気”の力がまだ弱い。

そして今書きながら分かった。“行”が足りない。そしてただ単に練習量も足りない。

深い呼吸をもった生活が必要だし、もっと自分の中に岩をも動かすエネルギーのようなものが必要だ。

まだまだできる事、しなければならない事がたくさんある。

さて次の演奏は今の予定では3月20で、今回と同じトリオで行います。

http://www.aacfli.com/昼の部、夜の部両方参加予定です。