2010-12-02

カレッジでの出来事

先月の事である。

僕のクラスで、とある先生に9割以上の学生が不満があると言って、その事を他のクラスで話をしていたらその先生が、そこまで言うならデパートメントに皆んなの意見をまとめて持って行きなさいという事になった。

そこでみんながペーパーに不満を書き始める。僕はたいして不満がなかったから書かなかった。

さて皆が書き終わり誰がまとめて持っていくか?という事になった。

そこで僕の名前が急浮上。。おいおい待て待て I do not have any complaints!!!って言ってるのに結局僕が書く事になった。そのクラスの先生も僕に書くよう求めた。まぁこれも勉強かと思い書いてしまった文章がこれだ。



To ELA Department                   Octber27  2010                                                                          


Re: Pro.AAAAAA
Class  AAAAA(Writing)

The following statements are from most of the students in Professor AAAAA’s class. We would like the ELA Department to consider these statements seriously.

We are trying to learn very seriously, but she is always in an angry mood. We have no idea what we can do for her.
             
She does not answer clearly when we ask a question.

She says that just only a couple of students can pass this class, but she never explains what we should do for passing the class.

She corrects our essays during the class one by one, so we have nothing to do for the meantime because she does not give any assignments during that time. We would like her to correct our essays in her room.

When she asks us to rewrite essays in class, she gives us just 10minutes without a sufficient explanation. It is not enough time for us.

She does not explain about our homework clearly with only writing it on the board.

We respect her, but we feel she does not respect us.

She instructs us to follow her personal hand writing style.

She does not allow us to drink water in class.



僕が皆んなの意見をとりあえずまとめたものだ。これだけ読めば確かに最悪な先生だが、もちろんこれは学生がかなり感情的になってるのですべてが正しいわけではない。

これは先月の話で、この時期以来、このクラスの雰囲気はぶっちゃけあまりよくない。

そして今日、今期の成績について先生との面談が一人づつあった。僕の番になった時先生が、ところであのペーパーをデパートメントに持って行ったのはあなたよね。って言ってきた。ペーパーには9割以上の学生がサインしていたが僕はしなかった。しかし持って行った事は素直に認めた。

そこで先生の攻撃が僕に始まる。

私はこの大学で30年教えてあんなのは初めてで、大恥をかいたやなんやら、、、

僕はあの状態でescapeできなかった事や、友達との関係もありどうしてもあの状況では逃げれず、そして僕はあなたに対して不満はないなど、これだけ自分は英語が話せたのかと思うくらい必死に説明をした。しかもあの時は他のクラス中で、その先生も僕に書くように求めたのだ。でもその先生は自分の名前を出すなと言われてたので喉元まで出かかっていたが、その先生の名前を出すのは必死にこらえた。

僕も自分を守るためである。今考えればこすい人間だ。

アメリカではたぶんこういうデパートメントに持っていった苦情は先生にとって大きなマイナスとなるだろうから、先生も自分が大切だ。

その先生は後であの文章に対する謝罪をデパートメントに持って行きなさいと学生に言っていたが、その後誰かが持っていったのかどうかは知らない。

僕は言い訳を必死にした。僕の立場を理解してくれと。しかしその先生はそんな事は関係ないわ、あなたが持って行ったという事はあなたもそれを認めた事だから、私はほんとうにdisappointmentと言い切る。

なんともなんとも後味の悪いセメスターだった。まだfinalexamは残っているので勉強を続けなければならないが、この嫌な感情をどう処理したらいいんだろう。


しかしとにかく人間は自分の立場が一番大事で一番に自分を守ろうとする事だ。


かってなもんだ



2010-11-28

龍馬伝を観終わって思った事

毎週こちらで見てました^。^

何がすごいってこの時代に活躍してた人達が、とにかく皆若いという事。

僕はこういうのに基本的に影響されやすいタイプだから、毎週観終わった後は何の根拠もなく気持ちが高まっていました。特に今こうやって何かをここNYでしようとしている時ですので。ただこういうTVから受ける根拠のない気持の高ぶりは一時間もたてば消えますが、、、、。

たかが150年前の事といえども、時代が今とはかなり違うから全く今と同じ視点で考える事はできないと思うが、それでも人の勢いというか何かに向かうという気持ちは特に龍馬の周りにいた若い者は強く持ってたんだろうなと思う。

一つの気持ちを継続させるためには具体性が必要だ。龍馬があそこまでできたのは、ある意味未来の光というものを彼の頭の中で創造的、且具体的に描けていたんだなと思う。そして上士から虐げられてたという恨みに対しあの力が働かなかったというのはないわけはない。彼の成し遂げた事を一つの芸術作品とみなすと、芸術というものは何かに立ち向かうという形でしかよいものは生まれないのかなとも思ったりする。毎日平和に生きている者にいい物が作れるのだろうか?と思ったりしてしまう。

改めて感じたのは人間の一人のエネルギーというものはとてつもなく大きいものだ。一人で事を成し遂げるのは難しいけれど、龍馬にはたくさんの人が集まってきてたし、彼に人生の望みをかける人はたくさんいてその人達のおけげで龍馬は一つの事を成し遂げた。しかしやはり元は龍馬という一個人の人間の思いから始まっている。

結果的に今日本という国が龍馬の目指したみんなが笑って暮らせる国になっているかは分からない。民主国家という国は出来上がったが、今は今で日本には毎年三万人という自殺者や、最近は虐待の問題も出てきている。“人の心に関わった問題”が増えてきているという事である。世の中というのは変わり続ける。

“人の心に関わった問題”が増えてきているという事は、人の心から生まれる普遍性をもった芸術と宗教が必要となって来ている時代なのかもしれない。

2010-11-27

儲けてしまった!

今週は火曜日からサンクスギビングのため学校が休みで遊びほうけてます。

昨日は友人とアトランティックシティーにカジノをしに行ってきました。

といっても貧乏学生ですので、、、学費に影響しないように、、、掛け金も微々たるもんです。

カジノはいくつかあるホテルの中にあってそこで色々と行われていました。しかし不景気のせいかよく分かりませんが外は意外と閑散としていたように感じました。




それでも中はそれなりに賑わっていました。



まあこんな感じでやってたら、いくらか勝ってしまって、バス代とランチ代程度ですがチャラになってしまいました。

友人ヤスは手慣れたもんでブラックジャックで結構勝ってました。

なんと彼は気前よくそのお金で僕ともう一人の友人にディナーを御馳走してくれて、飲んで食ってやってきました。


ビュッフェ式ディナーとかいう食べ放題です。

朝早くからでかけ、マンハッタンに帰ったのはAM三時すぎでした。

さて明後日からの授業に備えそろそろ頭を切り替えねばなりませぬ。

2010-11-21

新作ノート!!

今日は今年最後?の庭の落ち葉はきでした。旦那さんと一緒ですけど大量ですから一時間以上かかります。

その後はサンクスギビングがもう少しなので準備やらなんやらしてました。

落ち葉を掃いてたら、葉っぱをノートに張っ付けてみようかとふと思い、自作ノートを今回思い切って作り変えてみました。まずは和紙を貼りその上に流れるような感じで葉っぱを、、、

もう少し小さい方が良かったかなと後で後悔、、、



最近は日本の友人からGTDを教えてもらい、これからやりたい事をこのノートに書き込み達成していきたいと思います。

さあ次のプロジェクトに向けて明日からまた心機一転がんばります。




2010-11-17

ここ数日の事

龍笛の調子が悪いと、人生の調子までくるってくる。

頗る悪いというか、何かが大きくずれている。

客観的に自分を見れなくなっている。

集中力もない。

こんな時はできる事をとにかく落ち着いてやろうと試みるが一度歯車がかみ合わなくなると、とことんすべての調子がおかしくなるのが僕の性質だ。

昔に比べ落ち込み具合は少なくなったとはいえ、まだまだだ。

今はカレッジのセメスター中だから調子がどうだこうだと言ってる場合じゃないが、、、、

できるだけネガティブな事は文字にも口にもしたくないが、今はなんとなく書けば落ち着く気がしたから文字にしてみた。

とにかく一つ一つ目の前にある事をやっていこう。

こういう時みんなはどうするんだろう・・・?

日々是好日

内容の薄いブログでした。。。。





2010-11-15

龍笛コンサート終了

たくさんの方々に来て頂きました。おそらく100名前後ではなかったかと思います。

感謝感謝です。

しかしながら僕としては今回たくさんの反省点がありました。

まずは自分の調子を100%に持っていく事ができなかった事です。理由は、今回初めて自分で曲を作り、モダンダンスと合わせるという事をしたのですが、この曲が龍笛の曲としては無理が生じていて、自分の吹き方の軸が大きくぶれてしまったという事です。
約三カ月前に作り出し最終的に完成するまでに2カ月以上かかり、自分の軸がぶれて音がおかしいと気付いたのはコンサートの約5日前。時すでに遅し。

笛というのは曲に合わせて吹くのではなく、自然な風をただ入れるという意識で吹かなければなりません。真っ直ぐ息を入れるだけなのですが、僕は自分の作った曲に対し、曲に自分の吹き方を合わせるという吹き方で吹いていたのです。

残り4日程で調整を試みましたが、やはり駄目でした。お客さんにはたくさんお褒めの言葉を頂きましたが、芸術は自分が納得してなんぼの世界。もちろん僕の日頃の音を知ってる方は僕の調子に気付いていました。

ただこの事に自分自身ではっきりと気付き、自分でなんとかしようとした事は僕にとって大きな前進です。というのは今まではすべて師匠に気付かしてもらい修正してもらっていたからです。

とある知人にはこんな批評ももいただきました。“全体的なまとまりがなくて、アーティストとしてNYでどう行きたいのか方向性が曖昧。”


この部分はこれからもっと真剣に考えねばなりません。



今回は約20名程の方々にお手伝いを頂きました。この場を借りて御礼を申し上げたいと思います。
ほんとうにありがとうございました。





2010-10-31

10月の出来事

今月もブログに手がとどきませんでした。。みなさまご無沙汰してます。

NYはだんだんと寒さがましてきてついこの前まで芝刈りだったのが、今日からは庭に散乱してる落ち葉の掃除です。

さて先週はJapanSoietyという所で七五三の行事があり、付け楽として天理NY雅楽会のみなさんと演奏させていただきました。


まぁこんな感じで。撮影柿谷。

演奏会というわけではなかったので、特に緊張する事なく演奏できてたのではないかと思います。しかし定期的に演奏場所があるというのはモチベーションをキープするという点においてはいいかと思います。

特に気のきいたコメントがなくすいません。とりあえず報告です。


そして僕自身はここ最近色々な事がありすぎて頭が錯乱しています。。。。
しかし来月10日のコンサートに向けて気持ちを整えていかねばなりません。今回は初めて自分で作った曲をモダンダンスと共演するという試みで、不安はなきにしもあらずといったところです。

下の写真は先週の練習。
ダンサーは文化庁のプログラムでNYに来てるまだ大学院生の子です。感性が鋭く気の抜いた事を僕が言おうものならすぐにつっこまれます。。
一つ一つの動きすべてに意味をもたし、論理的でありながら、柔軟性に富んでいます。最初はなんぬきなしに、龍笛とダンスでやってみようかという事で始まったのが、現実にやる事になりました。あと10日まだまだ煮詰めていかなければならない部分はたくさんありますが、いい作品ができるのではないかと思っています。




コンサート情報



2010-10-02

最近の事について思う

10月になり今日からまた心機一転して勉学、龍笛の道へと励んでいきたいと思います。

来月のコンサート、カレッジの課題、その他仕事などで、ぶっちゃけかなりテンテコマイになってますが、とにかく常々優先順位を考え日々集中して取り組みたいと思います。

さて日本では尖閣諸島の問題、北方領土問題など様々な事件が起きているようですが、いつも思うのはなんとも人間というのは自分の事、自分の国の事しか考えない生き物だということだ。人類とはどこに向かうのか?などと書くと何とも仰々しい感じになるが、素直に最近の新聞をみてるとそう思ってしまう。

当事者達にはそれぞれの持ち場立場があり、それを守らなければならないから僕のような第三者があべこべ言う必要はないかもしれないが、それにしても人間としての質を問いたくなるようなお偉いさんががたくさんいるような気がする。

現在の世界の問題は、ある意味宗教や道徳でもって解決する事はもう不可能であろう。といっても僕の仕事は人間の心を扱う仕事であるからそんな事は実は言ってはいけないのだが、、。ただ今回の一連の出来事を見てると、やってる事は小学生の喧嘩となんら変わりがない。ただ大人がやってるだけで、それが我々の実生活に大きく関わっているか否かである。

こんな喧嘩は今からも続くだろう。そして最終的ににはおそらく大喧嘩になるだろうが、それを我々人間が自ら前もって食い止められるかどうか??おそらく否であろう。

しかしこの世に生を受けたからには、一人間として少しでも人様のお役に立ちたいと思うし、何か自分の行いが世界の “和” にとって、米粒の100万分の1程でもいいから役立って欲しいと願う。そしてそれが、自分と他人、現在と未来への繋がりのあるものであってほしいと願う。

日々コツコツ自分のできる事、自分にしかできない事を探りながら生きていきたいものだ。

またアホナ事を考えてしまった。AM1時半だ。寝ます。

2010-09-10

最近

NYは秋に向かっています、というか今日は急に肌寒くなりました。

ご無沙汰してます。

ずいぶんとブログをさぼり、先程帰りのバスの中で何かを書こうと思い立ち今PCの前に座り書き始めたものの、さて何を書こうか。

実は最近僕の中でBIGな出来事があったんです。結果からというと、、吉ではなく凶でした、、、、、。もしかしたら人生を左右するかもしれない事だったんですが結果は凶。。でもなぜかいうほど落ち込んでもないのでご安心あれ。って誰も心配しないでしょうけど。それが吉に変わる事を願って!!
しかし実際は来週から、僕の本分ともいえるカレッジの勉強、次のコンサートの準備、日本語教師とやる事盛りだくさんですからもう次に向かって発進中です。

話は変わります。

次の僕のコンサートで実は初めて自分で曲を作ってみました。薄い脳みそと、薄い感性を必死に働かせ約一カ月程で18分程の曲を完成させました。龍笛のためだけの曲です。3,4年程前の自分には考えられない事をしたと自分でも驚いています。追い込まれたら人間できるものだ。。今回は雅楽というものには全くこだわらず、ただただ龍笛という竹の楽器と人間の体の動きで一つの作品をつくりあげようとしています。

もちろん龍笛の音を最大限に生かされなければなりません。それとともに人間の体の動きも最大限に生かせなければなりません。お互いが十分に特性を発揮できるように練り上げていきたいと思っています。

NYに来て約一年になります。今思うと大きく自分の龍笛に対する考え方がずいぶんと変わってきたなと思います。色んなものに触発されたい自分と触発されたくない自分がいて、客観的に自分を見るとなんとも滑稽な二人が存在している事にときどき気付きます。そして龍笛に対する考え方でここだけは揺らぐまいと思ってた事でさえ、回りの斬新な芸術に触発され揺らいできます。でも自分の考えを破壊して破壊して、その中から自然と出てくる考え方というか、思いが実はほんまもんだったりするんだろうなとも思います。

さて明日に備えシャワー浴びて寝ます。

2010-08-27

ダンスフェスティバル


先日ダウンタウンでダンスフェスティバルがあり友人と見に行ってきました。

とりあえず説明より写真貼っつけます。





個人的には日本人のダンスが好きだった。僕が日本人だからかもしれないが、動きが繊細に感じた。

それにしてもダンスというのは人間というものの表現の極地であるように思った。





2010-08-18

Gagaku ryuteki concert with modern dance

Ryuteki(dragon flute) concert with modern dance



Wednesday,November10 2010 8:30PM


43A West 13th Street,NYC 

Tenri Cultural Institute http://www.tenri.org/


Program

Gagaku  

    Banshikicho   Etenraku

    Saibara          Koromogae

Gigaku

    Gyodo
    Taikofu
    Suiko     
    Kongorikishi
    Konron
    Baramon
    Gojyo
    Goko
    Kyokushi

Five Elements

Composed by Sadahiro Kakitani  

Choreography & dancer by Yuki Nishiyama


Edit by Yoshitaka Mori



   
 Gagaku music has a long history, traveling east along the Silk Road until it was introduced into Japan from China over 1,400 years ago. Gagaku incorporates in its theoretical structure both the Taoist theory of yin-yang and ideas from Mahayana Buddhism, and is said to represent the order and harmony of the universe.  Sadahiro Kakitani, a Gagaku musician, will feature in this concert the debut performance of his original composition FIVE ELEMENTS, inspired by the Chinese philosophies of yin-yang and the five elements of the cosmos, with modern dance interpretation by Yuki Nishiyama.






2010-08-13

日野原 重明先生の講演会

Twitterを再開し、ブログのペースが一段と遅くなってきましたが、自分の軌跡をしっかりと残したいと思います。

数週間前に、NYの高知県人会の方から日野原先生の講演の連絡を頂き昨晩日米合同教会へ聞きに行きました。

題目は“生き方の選択”水平の生き方と垂直の生き方というものでした。

99歳という先生は時折ジョークを交えながら、又昨今の社会情勢などにも鋭いメスをいれながらお話をされました。僕が印象に残った話は、先生はいつも診断をする時、相手の気持ちを察しようと努めるそうです。相手の目線に立つという事だと思います。僕なんかが書くと、ただの品のいい言葉で終わってしまうのですが、先生の口からこれを聞くと本当にこの方はそうしてるんだなと言う感じというかオーラを受けました。

クリスチャンである先生は話の中で聖書を引用しながらも、それをクリスチャンではない人にも抵抗を与えることなく、実に柔らかく呑み込めるような口調で話をされていたように僕は感じました。

例えば人を許すという慈悲の心の話などは、西洋と東洋の考えを融和させ、髄の部分を引き出したような内容でありました。

自国の利益、自己の利益ばかりを追求する世の中にかすかな怒りを感じているという事も感じました。

当たり前の話を当たり前にお話しされるのですが実に説得力がある。

この方の通られた道が話にENERGYを吹きこんでいるのでしょう。




2010-08-07

Twitter再開

Twitterを再開する事にしました。

http://twitter.com/tamome1

みなさま、またフォローよろしくお願い致します。

NYにきて来月で一年が経とうとしている。僕はこの一年何をやったんだろうと振り返るとまだまだ何も成し遂げられていない感じは拭えない。

ここで生きていると平凡な日はない。嬉しかったり、楽しかったり、ときどき傷ついたり(これはかなり頻繁)、、

それでもへこたれずに何とか前に進もうとしている自分をときどきは褒めてやりたいが、そんな性格ではない。。。。

それと報告です。11月の初めにソロコンサートをする事にしました。今回は現代ダンスとのコラボも企画しています。詳細が決まり正式にお伝えします。

言いたかった事はTwitter再開です。。

2010-08-02

もりのさんが逝ってしまった

母が幼少の頃から、母の実家にはもりのさんというおばあさんが住んでいた。僕が赤ちゃんの頃から僕を本当の孫のように可愛がってくれた人だ。

つい先ほど亡くなったという知らせを日本から受けた。心の底から駆けつけたいと思う気持ちを今はおさえている。

僕はこのもりのさんが大好きだった。僕が会いに行くと、僕を見た瞬間から、いつも涙を流して拍手をして迎えてくれたものだ。三年程前に会った時は足が悪く、車いすに乗っててずいぶんと痛みがあったようだが、僕が会いに行って足をさすると治った!治った!と言って喜んでいた。もちろんぼくにはそんな魔法の力はないが、とにかく僕を愛してくれていた。そしてすごく賢く、存在感のある方だった。

最近は会った時はうれしくて泣く、別れる時も悲しくて泣くといった感じだった。そしてなぜだかもりのさんに会った後は僕自身も他の人にやさしくなれる感じがいつもしていた。

人は大切にされると、人を大切にできるんだと今になって思う。この人からこの事を学んだ。

血が全く繋がっていない僕や僕の家族をとにかく無償で心から愛してくれていた。渡米前に会った時は頭もしっかりしていて体も元気だったから、二度と会えないと思うと、、、、

なんとか御霊に喜んでもらえるような生き方をしたいと思う。




2010-07-23

坂爪先生との出会い


チェルシーにあるippodoというギャラリで展示されていたこの作品がずっと気になっていたところに、日本から作者である坂爪先生が来られるというので、ぜひ話を聞きたいと思い駆けつけた。

この方の第一印象は柔らかい方というイメージだった。

どれだけの時間かあまり覚えていないが、時を忘れひたすら芸術について話しさせてもらった。

印象的だった言葉は、“具体というのは抽象から成り立っている”。

最近は抽象的なものに興味を示さない人が多くなってきたと先生は言う。抽象的な作品を見て考えようとしないから、具体というものが分からない。

僕が思うのはNYには所謂アートという名の下に分けの分からないない、作品と言っていいのか、展示物と言っていいのか、そんなものがたくさんある。

大事な事は作者が“分かっているか”である。根の部分、抽象の部分であると言ってもよいと思う。例えば上の作品を展示する時もルールというのが存在しているようだ。一見何もないように思うかもしれないが、そこにはDharmaというものが存在しているのである。

最初の一点により後の位置が決まってくるのだという。アートで生きていく人間はそれが見えなければならない。

僕の師匠も同じような事を龍笛の曲を作曲する時に言う。この音、このフレーズが来たら、次はこれしかありえないというフレーズがある。それが見えないとだめだと言う。

僕はまだその領域に入っていない、しかしながら、ときどきこの領域に入っている人というのは生まれた時から何か違うのではないかと感じる時がある、が、それを僕は“行”というものが存在しているという事実でもって否定している。

地球というわけのわからない抽象物から具体的な物を引っ張りだし、そこに“無の意思”を加えていく。それが何かを生み出していく事であると現時点で僕は理解した。

ルールというものは蜘の巣のように張り巡らされている。無限の法則があるが、その法則を破ると芸術は意味をなさなくなる。





2010-07-08

Isamu Noguchi Museum

暑いです、NYは。。。

日本の夏も暑いが、何かここは別の種類の暑さがあるような気がする。

さて今日は以前から行きたかったこのMuseumにやっと行ってきました。



第一印象。 よくわからない^^^。





これは西洋なのか東洋なのか、今なのか昔なのか、抽象的なのか具体的なのか、情熱的なのか冷静なのか??

どうにも掴みにくい作品ばかりだが、しかし観てて飽きない。それはもしかしたら、Noguchi Isamuという大芸術家の名が僕の頭に先入観としてあるからかもしれないが。




友人に撮ってもらいました。

人がほとんどいなかったので、ゆっくりと涼しみながら楽しみました。

次回はツアーに参加して解説を聞いてみたいと思う。

2010-06-28

EVENT

Bang on a can marathonというイベントに行ってきた。

自分がどれだけ、古典とか、伝統とかという言葉に縛り付けられているかという事を認識させられ、見ているうちに僕のアートに対する枠が段々と取り外されていく感じがした。

例えばあるピアニストは叫びながら、ピアノの上や側面をたたいたり、ときどき鍵盤に乗ってお尻で弾いたり、、おいおい、、でもこれが大反響。



感じたのはやっぱり総合力。技術はもちろんですがどうやってその自分の技術を世間にプロデュースしていくか。

巧い人はNYにはいくらでもいる。地下鉄で汚い服を着て演奏してる人だってときどきめちゃめちゃ上手な人もいる。結局表に出る人と、埋もれる人は自分をどれだけ巧みに売り込み、強いコネクションを作れるかだ。

特に僕なんかなんのバックグラウンドもないし、そして言語のハンデがある。


もっと“したたか”にいかなければ。





2010-06-25

メトロポリタン BIG BAMBU

メトロポリタンミュージアムに竹のアート展を友人と見に行ってきました。

とりあえず説明するより写真の方が早いので張っつけます。





屋上からの眺め。


まだ竹の上で数人の職人さんが作り続けています。

どっからこの竹集めて来たんだろう。。ものすごい量です。

行きたい方、ぜひお靴を履いて。。サンダルでは登らせてくれません。

その後はセントラルパークでLUNCH。

久しぶりにのんびりとした感じの一日でした。

2010-06-18

小池龍之介という人

iTunesのpodcastに「ラジオ版学問のススメ」というのがあり僕は最近学校の行き帰りなどに欠かさず聞いている。今回は月読寺の小池龍之介さんというお坊さんだった。なんとも驚いたのが1978年生まれ、にしてあの落ち着いた話し方。

今回は氏の著書「考えない練習」についての話だった。簡単に言うと考えずに五感を使おうというものだ。考えすぎる部分を切り離すことにより、よりクリアーな思考が持てるという事だ。

一つの事に集中する。考えないために一つの事に集中して考える。

彼によると普段の我々の頭は自発的に考えているのではなく、考えさせられているらしい。だから今行っている事に対し意識を持って取り組みそれに集中する。食べる時は食べる事に集中。読む時は読む事に集中。聞く時は聞く。話す時は話す。

僕は人に比べてという事ではなく、自分で自分は煩悩が多い人間であると思う。とにかくいらない事をだらだらと考える癖がある。今回この話を聞いて改めてこの事を自覚した。

もう一つ今回この話を聞いて感じたのは、自分を変えるのは環境ではなく自分で変えるのだという事。しかも普通の生活の中で意識次第で十分に変える事が出来る。

一つ聞いてて、へぇーと思った箇所がある。氏が「私には信仰心はないんです。」と言ったところだ。氏は仏教を宗教として捉えているのではなく、仏道として、所謂、僕の解釈では、楽しく生きるためにごちゃごちゃいらん事を考えるのではなく、考えなくてもいい事をやめ瞑想などはそのための修行だということだ。

これについては今の僕にはよくわからない。

とりあえず、僕は悪い頭でごちゃごちゃと考える癖がある、なので今日からもう少しシンプルに生きてみようと思う。

日本に帰ったら一度会ってみたい方だ。




2010-06-15

何か引っかかる作品



一見よく理解できない絵がNYにはありふれている。

僕にとってはこれもそんな絵の中の一つだったはずだが何か気になったので、近くにあったパンフを読んでみた。

英文の意味がいまいちよくわからなったが、Order, Harmony, Awe,  Unknown power, mysterious, Universe, Planet, Cosmoがキーワードじゃないかと思う。

なんとなく納得。

芸術を人に提供するにあたって大きな感動を与える事ができるのがいいに越したことはない。が、何かその人の心に引っ掛かるものを与えるだけでも十分な気がする。

それがたとえ心地の良いものではなくても。(この絵の事ではなく)

まずはそんな龍笛を吹きたい。

2010-06-14

The Cove

友人に借りて観た。

問題は色々あろうが基本的に,人それぞれ又国によって物事に対する感性と価値観が違うからなんとも評価のしようがない。

僕個人的には、日本でも上映してもらいたいと思うが、日本人においても感想は異なるだろう。作者の思いが必ず作品には入るので一方的な見方といえばそれはどの作品においても当り前だ。

ただ注意しなければならないのは感情的に観ては意味がないということだ。例えばこの映画ではイルカが入江に追い込まれ漁師により殺され、その辺りの海一面が血の色に染まる映像が流されるが、そこをただの感情で観てしまうとかわいそうな感じもするが、生き物という点から考えると他の動植物はどうなる?となる。友人はあれはリメークだろうと言っていたが実際は知らない、、

作者は実際は動物愛護よりも水銀が子供や妊婦に及ぼす危険を知ってもらいたいと訴えているようだが、それだったら他の国々でもたくさんの使ってはならない薬品類がたくさんの物に使われているはずだから、他の国にも目をむけなければならないはずだ。水銀の問題は僕はよく分からないが、ただ問題が起こる所には、私腹をこやす人がいるのではないかと察する。

ネット上でもたくさんの議論がくりひろげられているが、最初に述べたように動物愛護の問題から考えると、動植物に対する考え方は人種や宗教、地域によって違うからなんとも複雑な問題だと思う。それとともに何か監督の政治的な意図、ただイルカ漁に対するだけではない何かがあるのかもしれない、、が、僕にはよくわからない、、

日本では上映が中止になったみたいだが、僕個人的には上映してもらいたいですね。




2010-06-13

同性愛

ブログのバックの色を思いきって明るくした。PCに関してはど素人がやってる作業だから全体の作り方としてかなり素人くさいのはお許しあれ。しかし気持ちが少し明るくなりそうなかんじだ。


さて本題。


アメリカではこれは大きな議論のテーマであり、エッセイのテーマとしてもよく取り上げられる。そして今まさに明日の締め切りに向かってパソコンに向かっている。

お題は同性愛者が養子を貰えるか否か?

なんともなんとも僕にとって苦手なテーマだ。なにせそういう友達とあまり交流があるわけではないので、ただ単に慣れていないというか僕のような、ただの田舎坊主には普通にそれは変だと思ってしまうからだ。

東洋理論を持ちだし、世界は陰と陽からできていて、、、、などと語りだすと酒でものみながらやらないと書けなくなる。。。

あ、今禁酒中だった、、

バカな事を言ってる場合じゃないが先程なんとか書き終わった。結論は否だ。

まず一つの理由としては赤ちゃんはもろちろんだが、その状況を選べないからだ。 江原さんなんかが言う、「子供はみな自分の状況を選んで生まれてくるんだ、」なんかはひとまず横においといて。

やっぱり精子や卵子だけ誰かに提供して子供だけ貰うというのは、何かどうも違う感じがするが、エッセイでは徹底的に理論的になぜ駄目かを書かないと残念ながら点数は貰えない、、

もうひとつの理由としては男は男、女は女の人にしかできない子供に対する役割というか“情の与え方”というものがあると思う。

では片親と、同性愛者に育てられるのはどうか?となった場合だが、僕は片親の方がいいと思う。理由はあきらめがつくからだ。きちっとした理由が作れる。例えば別れたとか、亡くなったとかなにせこれは普通であるが、両親とも男であったり女であったりするとどうもこれは・・・・・・・・・。すいません、、なんか適当な言葉が見つからなかったので。

よくわからない事を書いてしまったが、とりあえず答えがない問題だ。決して僕は理系の頭ではないが答えの出し方が全く分からない問題はとっつきにくい。

しかしこれはすごく大切な社会問題だ。

2010-06-12

電話での話

昨晩久しぶりに、日本の相方と長電話をした。決まって内容は笛の話。

僕は今の師匠に18歳の時から習い始めて、今のように約一年近く習わなかったという時はない。だから今はひたすら道をはずさないように自分で音を探すしかない。

相方は今師匠宅で修行中だ。雅楽に関してはすべてにおいて僕より一枚上だから、そういう意味において僕は彼を信頼している。

昨日はどうやって自分だけで音を探していくかという話だった。一つは自分の感性を信じるという事。これはどういう意味かというと、自分で吹いてて少しでも“違う”と感じるとそれは違っているという事だ。だから少しバックして、しきり直さなければならない。

きちっとした道に乗ると音は自然に動き出す。自然な吹き方というのは無理が生じず、そして答えは針の一点にしかない。しかしその針を通す息と言うのは実に柔らかく強いものであり、所謂雨垂れが岩をも崩していくイメージだ。

柔らかい水が段々と岩をも突き通していくという事が、本来の“練習”をする意味だと僕は昨日捉えた。

答えは一つの場所にしかない。その大きな岩が水滴によって砕ける部分は針の先の面積一か所のみである。

それぐらい龍笛を極めていくという事は困難である。真っ暗闇の中を体の全細胞を働かし感じながら進まないといつまでたっても辿りつけない。

しかしその道に入る事ができそうな瞬間がある。例えそれが勘違いであったとしても、それは“気付いていっている”という事であり、その勘違いに気付いた時が上達している時だ。その感情というのを僕は大切にしている。その発見と勘違いの感覚を持ちながら進んでいくところに笛と共に生きてゆくおもしろみがある。



2010-06-06

次へ向けて


 なんとなく思い感じの毎日が続く。原因が分かっていない事はないが思うように体と心が言う事を聞かない。。。

まぁこんな時もあるだろうと思いながら、、ふと思いついた。僕には座右の銘がない。


ネットでなんぬきなしにこんな言葉を見つけた。


何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く。
高橋尚子/恩師の中沢正仁からの言葉

まだ座右の銘を決めたわけではないが、なんとなく今の僕にしくっときた。


しなければならない事は分かってるはずだが、ときどきとてつもない不安に襲われ眠れなくなる、、それでも笛吹きの自分がそんな自分を支えている。


さて秋にNYで三回目のソロコンサートをする事に決めた。

詳細はまだ決めてないが、今回は少し新しい事にチャレンジしたいと思っている。



2010-05-31

MOMA

先日Marinaさんと言う方の特別展がMOMAにてやっているという事で友達と行ってきました。




白い服を着ている方の方が当のアーティストです。

彼女は座っているだけです。そして数十分経つと右側のお客さんが交代します。

上の階では、生身の人間が裸で立ったり座ったり、横になってたりしています。男性女性共々。これもすべてMarinaさんの作品のようです。

とある二人の男性は全裸で40センチ程の距離で向かい会いその間をお客さんが通って行きます。とある女性は全裸で横たわり、骨の模型が体の上に置かれていました。アジア人らしき女性は壁に貼り付けのような姿で踏み台にのり、これまた全裸で踏み台に乗り両手をひたすらゆっくりと動かしてました。

僕が何を感じたかというと、実はあまりよく分からなかった、、、

ただすべての作品(人間)から呼吸というものを幾分か感じた。そして当たり前の事だが、人間というのは止まっていても生きているんだなと思った。

それにしてもNYならではの作品だ。


2010-05-27

お詫び

諸事情というか、気まぐれというか、facebookとtwitterをやめようと思いアカウントを削除したのですが、何人からかブーイングがきたのでやむおえずfacebookは復活させました。。。だがtwitterに関しては同じメールアドレスではもう一度復活させる事ができないようなので、当分はなしでいきます。ブログにて発信して行こうと思います。

これまtwitterでフォローして頂いた方ありがとうございました。と言うよりも急に消えて申し訳ありませんでした。

ちなみにちゃんと生きてますのでご心配なく。

2010-05-23

龍笛の事~責と和の出し方

Twitterでは少し書ききれなかったのでブログにしました。


今回は龍笛吹かない人には全く関係ない話です。ですので最初に御断りさせてもらいます。。。。


ここ二年程龍笛の“責(高音)”の音と“和(低音)”の音の出し方で気になっていた事があったのですが、それが今日少し分かったので書きたいと思います。

以前、相方から「和の音は責の口で吹くんや」と言われた事があります。その時は実は僕、反対だろって思ってました。

師匠はいつもとにかく口の力を抜いて責の音を出せといいます。和の音と言うのは口の力を抜いて出す事が出来ますが、責めになるとどうしても口に力が入ります。僕も人に教える時は必ず和の口、所謂口の力を抜いた状態で“責”を出すように教えます。

しかしこれは少し実は違ったのです。ただ口の力を抜いて“責”であれ“和”であれ音を出そうとすると音がどうしてもぼやける。簡単に言うと、口の力を抜いてぎりぎりまで口を閉め“責”を出す。そしてその口で“和”を出す。こうすると音の密度が高くなるから、竹に対し数倍の振動数を加えることができる。結果音も伸びるし、煤竹の音がでてくる。

こういう風に意識して今師匠の音を想像してみると、あの人の口はかなり力は抜けているがしっかりと閉まっている。もちろん師匠はそんな事は口にした事がないが、相方は見抜いていた。

遅ればせながら僕は今日それを体で持って理解した。

しかし実はこれは誰にも言うなと相方から言われていた事だが、、書いてしまった。。

2010-05-17

レポート

ばたばたした一週間でした。

やる事がたくさんあると、だんだんとそれを自然にこなしてくる自分に気付いてくる。それはおそらく自分の中での成長の一つなんだと思う。





さて先週のコロンビア大学の学生さん達のコンサートですが、僕は助っ人として鞨鼓をさせてもらいました。最近僕がここで教えている時のテーマは雅楽を深く習得するには、日本文化の心を学ぶ必要があるのかどいうかということです。

簡単に答えは出したくないのですが、なぜなら日本文化と言っても概念が広すぎて又具体的にどういういう事なのかというのも僕もまだ理解していないからです。しかしオタマジャクシを追うだけでは意味がないという所までは僕の中で結論に達してきたような気はします。

まずは合奏というのはソロではないから自分をある意味殺さなければならない。リードする人間に精神を合わせなければならない。これはただ単に音程を合わすという意味だけでばなく主管の人の音を生かすよう吹かなければならない。だから助管を吹くという事はこの点においては音頭を吹くより難しいと僕は思う。

自分を表現せずに、相手が持っている技術をどういう風に吹けば生かす事ができるのかを考えて吹く。これは所謂相手に花を持たせてあげる“和”の心ではないだろうか。相手を生かそうとすると自分の本来の個性が生かされてこないわけがない。自分ではない人のいい部分を引き出すにはどう吹けばいいかを考えて吹く事が、結果的に自分本来の吹き方を “取り戻す。”

こういった考えが雅楽をする事によって学生さんが感じれるようになったらなあと僕は思うが、これはあくまでも僕の個人的な意見だ。

あとはやはり見た目が雅楽は勝負であるといっても過言ではないと思う。どこの国の人間だというのではなく“凛”としているかどうかだ。この大学のプログラムは1セメスター終わるとコンサートに出ないとだめだから、週一の三カ月だけ練習した生徒でも三か月後は人前で吹かなければならない。その生徒に凛と吹けと行っても無理があるのは承知だ。15年以上やってる僕でも人前に出ると今でも縮こまってしまうのに、、、

さてこの凛というのはもちろん内面から来るものだが、実ははったりが可能だ。それは姿勢を正し、前を直視する事だ。これは僕が以前にも述べたコアーを包む外側の部分である。宗教で言うところの儀式の部分だ。そして実はこれは日本人よりもアメリカ人の方が得意だ。日本人は自信がないと下を向いたり小さくなるが、アメリカ人はそんなのは関係ない。そして練習よりも本番が強かったりする。今回も本番が一番良かった。

何を言いたいかというと、凛とした部分は彼らは持っている。多少僕の言いたい凛とは違うがまあよしとしょう。そして先に述べた僕が提唱する“和”というもの、これは残念ながらまだ彼らにはない。例えば僕がジャズを勉強するとしたら、どういう風にそれが黒人の中から生まれたかを感じようと努めるかもしれない。答えはそういう事だ。

日本の事をしっかり学び日本人がどういう精神で雅楽を重んじ、どのように感じているかという事を学べという事を僕は無理強いしたくない。が、今回演奏を一緒にしてて思ったのは、他国の長い伝統芸術を学ぶという事は、その国の精神というか、心を学ぼうとする気持ちがないと、どうにも、もしほんまもんを目指すのならば難しいのではないかという事に気付いてきたような感じがする。先に述べた“他人に花を持たせ自分の我を殺す事”だ。これは僕が思う“和”の定義だ。彼らにとってはこれはただの1セメスターであったり、ただの1単位に過ぎないのでそこまで僕が考える必要はないのかもしれないが、そういった事を考えてもらうような時間を作るのも悪くないし、これこそが実は音を出せるようになったりする事よりも大切な事かもしれない。



話は少し変わり、先日友人の弦楽コンサートに龍笛で出演してきました。




慣れない曲だったので僕はいくらかミスが出ましたが、まぁ今の僕の実力ではこんなもんでしょうと言いたい。感じた事は、ほとんどの奏者がその道のプロだったから、やはりさすがだった。巧い。全員がかなり高いレベルで合わせてくる。

こういうのは確かにやってて楽しいが、やっぱりやればやる程正直古典をやりたくなってくる。龍笛、雅楽というものをいうもの広めるという点においてはこれも一つの方法であるし、お客さんの評判も決して悪くない。

しかし本当に僕が表現したいものを表現するにはやはり古典をするか、若しくはソロでしか難しいような気もする。

2010-05-11

お知らせ

友人の弦楽コンサートに龍笛で少しだけ参加します。
お時間のある方どうぞお越し下さい。


日時 Tenri Cultural Institute (43A West 13th St.) on Friday, May 14th at 7pm.


Free













2010-05-01

形式というもの

知人から聞いた話ですので細かな部分は違ってるかもしれません。

とあるアメリカ人がマンハッタンのビル一角にお茶を楽しむために茶室を作り、何人かの日本人にお茶をさせたそうだ。

とある夏の暑い日に、日本人の先生がたくさんの人を呼びクーラーなしの部屋で着物を着て、熱いお茶を楽しもうとしていたらしい。日本人の先生が例え真夏であっても形式通りにそれをするのはある意味当然かもしれない。しかし普通に考えれば、マンハッタンの真夏のど真ん中で着物を着て熱いお茶なんか楽しめれるはずがない。

このアメリカ人は言ったそうだ。「日本人はお茶の心が分かっていない」と。

そしてこのアメリカ人はお客さんに対し、茶室にクーラーを入れ、ビールと練乳のかかった冷たいイチゴでもてなしたそうだ。

僕はまだまだ何も分かっちゃいないただ突っ走ってる若造だが、確かにお茶というのはお茶を楽しむものだが、“風流”を体で楽しむものであるとも思う。えらそうな事を言ってるのは承知です。

だから真夏にお茶を楽しむというのは、クーラーの部屋で着物を着てビールを飲んだってしっかりと筋が通っている。

お茶自体が大事であるのではないという事はいうまでもない。

形式というのは誠に大事だが、原点を考えず感じるという事を怠ればそれはまったく意味をなさなくなる。

雅楽に置き換えてしっかりと考えねばならない。

2010-04-11

ふと思い出したこと

昔、僕が大学を出て師匠の家の近くに住みながら通いの内弟子修行をしていた頃のころである。

ある時師匠が僕に厳しい口調で、「柿谷、人間は太く生きていかないかん」と言った後、その場にたまたま師匠の檀家のお年寄りの方が来られ、師匠が、「~さん、人生は細く、長く生きて楽しむんやで」と柔らかな口調で言った。ある時は僕に「人生は一回や。生まれ変わりなんかあるか!」と言いつつ、もう一カ月しか余命のない少年に向かって「人間には来生がある。きっと次は元気な体に生まれ変わってくる」と。

“人に話をする”という事はこういう事なんだと今になって思う。

これはたまたま龍馬伝を見て思い出した。

毎日希望と不安の混じった生活に時々耐えられなくなる事があるが、結局は先の事を考え過ぎるからなんだろうなと思う。でも考えずにはいられない、、

今しかできなく、この場所でしかできない事をしなければと思えば思う程全然関係ない事をしてしまう。。。

今の僕の人生の時期は言い訳無用、まったなしの時期だ。今やらないで何時する!!と自分に鞭を打ちながらの毎日だ。

さて明日からspringsemesterが始まる。学校の勉強と、雅楽伝道、日本語教師とTo Doリスト盛りだくさん。追われるより追いながら生きていきたい、、と思うが現実は追われぎみだ。

しかし気持ちはいつも“晴れ”ていたい。