2009-04-27

結婚式

友人の結婚式に行ってきました。なんと場所は四万十川の沈下橋。

少し時間に遅れて到着したら、新郎新婦二人が橋の上をゆっくりと歩いていた。さてブログにいい写真をとポケットをあさるが、なし、、、毎度のことではありますが。。しょうがない携帯で撮ろうとポケットをあさるがこれもなし。。。ということで今回は写真なし。

式は今流行りの人前式というもので、証人は式に参加している人全員で、みんなの拍手で結婚成立といったところです。河原でその式が終わった後は、披露宴会場が何百メートルか河口の廃校になった小学校で、そこまで二人とそれぞれの両親がボートに乗り川下り。

すごく風の強い日でしたが、なんともロマンティックな式でした。

僕はお決まりの笛を披露宴でご披露。少しざわざわな感じだったので、完全に目をつぶり自分の世界に入って演奏。まぁどんな時もあるだろう。

いずれにせよ僕の春は遠そうです。。。 お二人ともお幸せに!

2009-04-26

僕の今の龍笛のレベル


昨日まで三日ほど師匠筋の用事で奈良に行ってきました。




今回は3人程の方に笛の指導をしてきました。皆真剣で、何かを笛の中に求めようとしています。




龍笛の上達には段階があり、一つ山を越え、二つ山を越え……時々“これが本質か!!”と分かったような気になることがありますが、すべて気のせいであり、それはただの上達であります。。。






僕の師匠は「上達している間はまだまだや。音が進化していかないかん」と昔からよく言います。


僕は、まずこの上達をとりあえず終わらしたいのですが、残念ながらまだ上手くなっている段階です。一筋の光が見えたら、大きな暗闇が見え、また一筋の光が見え、暗闇が見え、、。この繰り返しであります。




芸術の世界においては一般的には完成はない言われますが、しかし僕はある意味においての完成形はあると思っています。




僕の思う完成形は、自分のイメージと音が直結することです。簡単に言うと、桜を見て、月を見て、人を見て、海を見て、、、、その感じたことが音に直結することです。無心のままに。これが僕の目指す世界であります。




今回師匠に「おまえ、もう少しやな」と言われ、実際自分でも、自分の意識はまだ気づいていないのですが、体はもう次の段階を知っているのではないのか、と思っています。




渡米へ向けて龍笛の方は、僕の現段階での完成形に近ずいているのではないかと思っています。と言うよりも、そう信じてます。








2009-04-21

プロフェッショナル

プロフェッショナル 瀬谷ルミ子
プロフェッショナル 仕事の流儀
銃よ、憎しみよ、さようなら
~武装解除・瀬谷ルミ子~


昨晩こんなテレビを見た。僕は朝テレビの番組表を見て、時々NHKのこの番組は見たいと思う時があるのだが、たいていは夜になったらTVを見ることを忘れる。。。しかし今回は見逃さなかった。

この瀬谷さんという人は紛争地域で、紛争後の復興、平和構築を行う32歳の女性である。なんとも若い。

TVを見ていると、すごく自然体である。気負いがなく冷静で、しかし情熱的である。女性としての品格も持ち合わせている人だ。

世の中には、大工さん、八百屋さん、車の修理屋さん、お医者さん、スーパーの店員さん、美容師さん、作家、政治家、スポーツ選手、宗教家、農家の人たち…… たくさんの様々な職業がある。

僕は人の役に立つ、立たない、また職業の種類で人間の価値は決まらないと思っている。しかし自分の仕事に誇りと情熱と責任を持ち、それを楽しみながら、且つその喜びを他人と共有しながら生きている人は素晴らしいと思う。

この番組で見ただけでは、この仕事が瀬谷さんにとって天職なのかどうかは僕には分らないが、少なくとも誇りを持って仕事をし、自分の行動に責任を持ち楽しみながら仕事をしているということは感じ取ることができた。

楽しい番組だった。

2009-04-19

龍笛の吹き方~②

一昨日妹が、アメリカから一時帰国したので関西空港へ迎えに行きました。国際線の搭乗ゲートは僕にとってなんとなくわくわくする場所です。なにかが生まれそうな予感がして。。

さて、前回の続きです。やはり正解でした!!

音を押していくということは、絹糸を引いていくことであり、振動です。だから、‘音が伸びるように吹く’ということは、この振動させるということができないと伸びないのです。

音はもちろん空気と管の振動によって鳴るのですが、師匠が奏する時の管の振動は、全く常人の吹く振動ではなく、別次元の振動です。

こういうことが分かれば分かる程、自分の音がまだ素人の域だなと痛感いたします。である一方自分の上達も感じることができます。

今回はみっちり指導していただきましたが、ただひたすらこの振動させる練習です。言われることは一つ「考えるな。感性で覚えろ。」僕はただ真似るのみ。。

聞く時、習う時に大切なことは、師匠が吹いてる時は、自分がその音を吹いてるつもりで、相手に乗り移って聞くのです。相手の場所に自分が座り、今出してる音は自分が出してるイメージをしながら聞くのです。これが僕の聞き方です。これでイメージが湧く時と、湧かない時があるのですが、湧いた時は、次自分が次吹く時は師匠に近い音が必ず出るのです。この出るかでないかは吹く前に、その音を自分がイメージの中で出せてるか出せてないかの差です。


僕はこの事を、自分の生徒さんに指導すると時いつも言ってます。“ただ闇雲に息を入れても決して、良い音は出てきません。自分の心の中に自分が出したい音をイメージしてから吹いて下さい。”と。

あと渡米まで約3か月半、なんとかもう一皮むかなければと思います。

柿谷 貞洋

2009-04-16

稽古にむけて


明日からは1か月ぶりに師匠のとこへ稽古へ行きます。

24才まで僕は師匠の近くに住んでいたので、出会ってから7,8年間はすぐに稽古に行けたのですが、今は8時間ほどかけていかなければなりませんので、一回一回の稽古が勝負です。渡米も近いですし。


稽古といっても、なんだかんだと忙しい人なので、僕が横で吹きながら師匠は書き物をしてたり、何か他の用事をしながらという感じですが、最近は自分の音がどうなのか、師匠が何も言わなくても、師匠の顔を見て、眼を見てなんとなく分かるようになってきました。僕が8時間かけて行き、たった2,3日の滞在を知っていながら、何も教えてくれないことも時々あるので、顔をじっとみながら観察しながら吹かないといけないんです。拈華微笑の世界です。。。


しかし先月は何かと指導していただきました。専門的な話になりますが、" 吹き込んだ後の音の押しが弱い"。これが僕の先月から今月にかけての課題です。雅楽を知らない方には小難しい話ですが、この“押す”というのは決して腹で押すのでもなければ、力で押すのでもないし、音を大きくするのでもないのです。これは今日の朝、いつものように師匠の音をMDで聞きながら練習してたらなんとなく分かったのですが。。


口の力を最大限に抜いて、音の中に音をもう一つ入れるのではないかなと思ったんです。昔から師匠が言ってる『音の中には絹が引いているんや、雅楽はシルクロードから伝わってきたんやろ』の意味がなんとなく映像として感じれるようになったんです。この絹糸を引いていくのがたぶん“押し”ていくということなのではないか……、間違ってるかもしれません…


というか何言ってるかわかりませんよね??自分で書きながらマニアックだなとおもいます。。




 さて絹糸の引き方ですが、これは自分が絹糸にならないとわからないのです。 タイガーウッズはゴルフのイメージトレーニングをする時、普通の人は自分の打つフォームをイメージするらしいのですが、この人は自分がゴルフボールになって飛んでいくイメージをするんですって。


自分が風になって絹糸を引きながら音になっていく。同じようなイメージかなと思うのですが。今日そのことがなんとなく解り書いてみました。


とりあえず、まだ体得とは言えないのですが、明日師匠の前でそのイメージで“押し”を意識しながら吹いてみようと思います。たぶん微笑んでいただけると思うのですが。。

2009-04-14

理動と感動

今日、ある知人が面白いことを言っていました。

“理動はない”。こんな日本語はないと思いますが…。どういう意味かというと人間は理屈では動けないということだそうです。いくら、こうした方がいい、ああしたほうがいい、いい事をしなければ。と頭の中では思っていても体はなかなかそうはいかない。

逆に何かに感動した時というのは理屈抜きで体が動く。他人の人生や生き方、芸術、なんでもいいのですが、自分が心を動かされた時は理屈抜きで体が動くと、この知人は強く話してました。


日々感動を与えられながら、また与えながら生きていきたいものです。

2009-04-11

ゆっくりと


我が家に新しい里子が来て、早くも10日が過ぎようとしています。初日はおとなしかったのですが、段々と我が出てき始め、3,4日経つと両親や僕に対してもかなり横着な口をきくようになってきました。以前の僕なら、怒って抑え込むというのが常でしたが、最近は意識的にとにかく子供の言うことを聞くという事に、できるだ徹するようにしています。この子達はやはり少なからず心に傷を負っていますので。(詳細は省きます…)

ほんのこの前、この里子の兄弟が喧嘩をしていました。僕は黙っていたのですが、殴りあいになっていたので母が止めに入り、下の子に向かって「お母さんを叩きなさい。」というと下の小学2年生の子が母を殴っていました。母は殴られながら数十秒間包むように抱きしめていると、だんだんと落着きを戻していきました。

こんなのはただの一例です。子供はたぶん無意識だと思うのですが、変に反抗して、わざと逆のことを言ったり、こちらが腹の立つことを言ったりすのです。この子供達はこうやって僕の家族を試しているのです。どれだけ自分達に愛情を注いでもらっているのかを。

しかし日に日に、たかが数日で言動に落ち着きが出てき始め、顔が変わってきました。

大切なことは、1つ怒ったら、その後何かで2つは、褒めてあげないといけないということです。

僕も大人になってきました 笑。。

2009-04-09

意識的な呼吸の力




良い文章を書こうと思うと、どうも手が止まってしまう。できるだけ作った文章にならないよう素直に書きたいと思う。

何度も、自分がこれまで色々な方に習った呼吸法について書きたい思ったが、書いては消去の繰り返しであった、今日こそは書ききりたいと思う。

僕は今、日課として朝晩15分くらいづつ座禅を組む。といっても僕のは正座である。結跏趺坐でもいいのだが、正座である。

やり方は簡単であって、正坐をして手のひらを上にむける。それから、自分の丹田よりさらに後ろ斜め下辺りとみぞおちの奥とを気で結ぶ。それができると、宇宙の高い所と地球の真ん中を自分の心(丹田)を中心として一本のラインをつくる。これで形は完成である。

次に呼吸である。まず舌を前歯の付け根あたりに付け、口から全部出し切り、肛門を締める。これが意外とでできないが、へそと肛門がしまってない人間は心にしまりがないらしい。息はストローで出すように、細く密度のある、口笛を吹くようなイメージで長い息がよい。気持ちいいいという感覚もわすれずに。出しきった後、次に息は決して意識して吸わない。肛門を緩めると同時に、天の高い所から、鼻を通り勝手に丹田の奥深い所に、空気が送られてくるイメージである。この感覚は最初は難しく感じるが、ただの訓練であって、誰でも意識して練習すればできると思う。腹式呼吸でいいのだが、必ず横隔膜も広げる意識をした方が、体全体に気が送られる感じを掴めるはずである。

大事なことは、自分が自然になったイメージをすることである。極端にナルシシストになってみるのであある。

「あなたは天と地につながり、宇宙の一部なのです」とか言う人がいると、少しひいてしまうのが普通だと思うが、長く続けるとほんとうにそんな気分になってくる。

僕はこれを約4か月続けると、少し自分に変化が出てきたのを感じることができるようになってきた。今まで気になっていた些細なことなどが気にならなくなってきたのである。気のせいかなとも思ったのですが、あきらかに自分の日々の精神状態が違うのです。

それと物事に対する判断力というか、直観力が少しついてきたような気がする。だいたい何かを決める時、例えばAかBを選ばなければならないとします。冷静に、また客観的にみると状況的にAを選ばなけれならないとします。しかし欲のある自分はBを選択したい、どうしても今はBにしたい。こういうことは誰でもあると思います。こんな時自然とAを選択できる。座禅をするこによりこんな力がついてくる。もちろん僕もまだ完全にこの状態に至っているわけではないが。

たぶん人間の人生において、ぐっと苦しいことを我慢しなければならない時期と、追い風に乗らなければならない時期とがあって、それを自然と感じることができ、正しい選択ができる人間が、人生の波にうまく乗れてるんだと思う。

話が少しそれるが、先日知人が自殺した。このことを書こうかどうしようか迷ったが、あえてこの文章に照らし合わせて考えてみたい。詳細はよく知らないし、知人といっても特別親交があったわけではない。しかしこの方は僕の、“笛を生活の中心にして生きていく”という生き方を応援してくれていた人のなかの一人である。

結論から述べると、人間はみな生まれ持ったそれぞれの特別の才能があると僕は信じるが、この方はそれを見つけることができなかったのだ。この世で生きる表現方法を見つけきれなかったのである。また回りの人間もそれを見つけてあげることができなかったのだ。もちろんこれは僕の一方的な見方ではあるが。

人間が生きるということは、僕は、自分を表現をしていくことだと思う。自分の徳分を生かしていくのである。少し感情的な文章になるが、僕はこの事を強く主張したい。表現である。だから、お互いがお互いの深い部分で会話をしまければならないし、人の感情に敏感にならなければならない。

人という漢字は、線が支えあう。これは助け合うことだと言われるが、僕はお互いがお互いの才能、天職を発掘しあうことでもあると思う。

神がいると仮定しよう。そして神が人それぞれに才能を与えたとしょう。しかしそれを見つけるのは、自分である。がんばろうとするから時々人が手助けをしてくれる。我々には大きかろうが小さかろうが、目標と夢が必要なのである。 それを達成した時の感動が必要なのである。

僕は音楽家でもなければ、芸術家でもない。宗教家の一笛吹きである。人の魂を扱うのが仕事であるとなんとなく思っている。漠然とである。しかし人の魂を音で救いたいと本気で思っている。もちろんこのことをまだ深く理解していないし、宗教家としても半人前の半分である。

話をもとに戻す。この呼吸法が全ての人において絶対的であるとは思わないが、自分がこの世において何をしなければならないか、何をしたいかが、長く続けることによって見えてくるのではないかと思う。

自分は、自分で好き勝手に生きているのではなく、生かされている。長い歴史のなかの一部であり、線の中の決して欠けてはならない点であるということを深く自覚できる方法の一つであることは間違いない。

僕は、自分がこの線の中の点であり、これを自分で決して切ってはならないものだと思う。





2009-04-04

龍笛の吹き方~①

龍笛を吹くということ」ということについては以前に書きました。

今回は吹き方について書きます。

あくまでもここに綴るのは私が習った基本であって、一般における基本とは少し離れているかもしれませんが、その点は御了承下さい。

基本は大事とよく言われますが、要は何が基本かです。
  1. 吹き込み時は下から、あてがうように柔らかく吹きこむ
  2. 口に力が入っていると、息が入っていかないので、極力力を抜く(責、和とも)
  3. 音が出たら、音を音で押していく。この時伸びるイメージで(口が堅いと音が伸びない)
  4. 歌口をできるだけ前に出すことにより、口と歌口の距離が離れ、音に張りができ、音の密度も高くなる
  5. 自分の求めている音を知る(これは難し、、)
この辺りが僕が習った”僕が信じる”基本です。

音楽ですので文章で伝えることはできませんが、笛を吹いている方々イメージの足しにしてください。

1~4までが無意識にできるようになると笛は9割9分完成だと思います。

自分の考えや、イメージを整理するために、時々吹き方についても書きたいと思います。

よろしくお願いいたします!

柿谷 貞洋

フリーマーケット


 今日は地区社協の催しで、地域の人が繋がりを持ち、顔見知りになりましょうという試みで、フリーマーケット(服、木工品、焼きそば、お寿司、お菓子…)、バザー、ビンゴゲームなどを、我が家の庭で行いました。しかし、あいにくの雨、雨 雨…


10時からの始まりで、数日前から回覧板などで、宣伝をしたのですが、最初は20人くらいしか集まらず、区長さんに地区へ放送していただき、それからぽつぽつと集まってきました。小雨とはいえない、本降りだったので、テントを急きょ張ったりなどで、かなりたいへんでしたが、最終的には100人を少し越したぐらいの人が集まり、食べ物などは完売し最初の試みとしてはまずまずのできだったと思います。


高知県はいつになるかわかりませんが、南海地震がいずれくるといわれています。こういう行事を大切にし、いざというときにお互いが助け合える関係を常日頃からつくっておくことが大切だと思います。といっても、僕自身はこういうのは実はめんどくさがり屋なので、両親のすることにあまり乗り気でないところもあるのですが、最近は少しづつ積極的になったかと思います。大人になってきました…… 


こういうことが年に何回かできればいいかと思います。そしてこれが、町興しや、地域の発展に少しでも繋がれば、より一層いいかなとビールを飲みつつ書いております。


2009-04-03

あぜを削りに




今日はうちの田んぼのあぜを削りに行ってきました。
うちのは、゛なかて″の部類であって、他の田んぼよりも少し遅めです。
このあぜを削るのは、この後たんぼを耕し水を張った後、ここに泥を盛るのですが、草が生えていたら泥がくっつかないし、隣の田んぼに水が流れるので削るみたいです。
僕は土手の草をかったり、田植えや稲刈りの時しか行かないので、詳しいことはよくわからないのですが、親父が言ってました。
昨年もやったのですが、これがしんどい……
となりの田んぼではおばちゃんが同じことをやってるのですが、休むことなくたんたんとやっている。
全く力が入ってない感じで、、
物事には長く続けないとわからない、" コツ"があるんでしょう。
明日は間違いなく筋肉痛ですな


2009-04-01

龍笛を吹くということ

四月になり、渡米まで残すとこあと約4か月となり、本格的に始動し始めていかなければ。とおもいつついまいちな感じだ。


僕は今の師匠について今年で11年目である。最初に出会った時、耳ではなく脳が揺らされる音をこの人が吹いたときは、なんと表現してよいか、、、こんな音を出したいというよりただただ唖然とした、という記憶がある。


今までの僕はただうまくなりたい、師匠のような音を出したい、と思ってがむしゃらにやってきたが、3年前アメリカに行ってからだんだんこれを外に発信したいと思うようになってきた。というのは、だんだんと僕の音を認めてくれる人が増えてきたからということと自分に自信が出てきたからだ。


僕の名刺は、以前師匠に色紙を書いてもらったとき雅楽傳導師と肩書きをもらったので、それ以来その肩書きを使っている。

しかし僕が本当に興味があるのは、極めたいのは、雅楽というより、龍笛の“音”なのかもしれないと時々思う。

先日10年前の稽古中のノートを見てたら、「笛は鳴らすのではなくて勝手に鳴るんや」みたいなことが書いてある。最近その意味が少し、呼吸法に焦点を絞りながら練習することでわかってきた。10年越してやっとだ。

この“わかってくる”というのは、もちろん言葉の意味ではなく、なんというか体の下の方から生まれてくるような感じで、いったん掴むといくら練習しなくても自分から離れないものなのである。だから大事なことは腕立て伏せや、筋トレをしてできあがった技術ではないことは確かだ。


龍笛はいくら練習してもイメージが湧いてこないと決して上達しない。だから、音のイメージが湧いてくるような練習をしなければならない。

最近自分の生徒に指導するときは特にこれを思うし、このことを伝えたいと思う。でもイメージが湧いてくる練習とは具体的にどんなものか?? もちろん雅楽を稽古するうえで一般的に大事だと言われている唱歌(曲をまず歌って練習すること)や、多数の曲をこなしていくこととは全く関係がないという事はすこしずつ解ってはきている。


僕の練習方法は、とにかく力を抜くということ。しかし、例えば、口の力を抜こうとおもったら口の力を抜くために、ほかの場所に力が入ったりと、最初はそんなものであるが、それでも続けるとなんとなく体全体の力が抜けてくるのを感じる事ができる。言い換えると自然体に近づいてくるのだと思う。


だから雅楽を練習するということ、笛を吹くということは自然に近づいていくことなのではないか。ってかなり抽象的だが、、、


人間が本来持っている力というか、感性というかそんなものが自然に近づくということで生まれてくるのではないだろうか。 これはプラトンの“人間はそもそも学ぶということは、本来持っているものを想起することである”に近い考え方であるかもしれない。


なんか妄想じみた事を書いているが、言いたいことは、丹田に気を込め、いらない力を抜くということだと僕は理解している。息を入れようとせず、我を捨て、自分が風になったことを想像するのである。

これが龍笛を吹くということであり、このことが、実際の生活、心、体に大きく影響してくるような気がする。というよりも、影響してこないとそれは吹いていない。練習していないのだ。

Welcome to our house

 先日、我が家の下の里子二人が引っ越しをして、3日程平穏な日々が続いていましたが、今日から新しく小学生2人が来て、また賑やかな日々が訪れます。
これで我が家は里子3人。きたばかりの今日は少しおとなしかったのですが、障子の張り替えはすぐに始まることになりそうです。。。

両親が里親を始めたのは、一番下の僕の妹が高校生の終わりだったころと思います。その妹ももう大学を卒業してますが。その時はいきなり4人。僕は県外にいたので、我が家がどうなっていたのかは露知らず……。かなり大変だったようです。

今、僕の子供たちに対する仕事は基本的には、休みの日に遊んでやるとか、風呂を入れてやるとかその程度のことですが、僕の両親は実の親と同じくらい、又、実の子に対する愛情と同じくらいの愛情を注いであげ、生活すべての面に関しての面倒をみなければなりません。
僕の兄弟が、もし里子たちと同じ年頃だったら、これは両親にとってかなり難しいことであります。

施設で育つより、家庭で育つのがいいとみな言いますが、人間として実の子に愛情が偏るのは当たり前であって、小さい子はそれにすごく敏感であり、ひがみがうまれ、逆に傷つけてしまう可能性があるからです。

だから、一見いいことをしているようであっても、もし僕が将来結婚をして、自分の子供ができ、同じ世代の子供をみるとなると、これは慎重にならねばなりません。一概に里親がいいというわけでもないと思います。

しかし、今僕が両親の子供たちに対する接し方を見る限りでは脱帽です。今の僕にはまだ真似ができません。  

いずれにせよ、子どもたちもある意味自分の意思でここに来た。僕も自分で選んでこの家に生まれた。

そこが大事な点である。



少年たちよ!!大志を抱き、我が家で大きくなってくれ!!! いや一緒に大きくなろう!!!!